▲郡山駅エスパルで開かれた「郡山写真部フォトフェス」へ。写真撮りますよ!と言っていただいた一枚!
ばばばんvol.14 強い違和感
本当はこのテーマで書きたくなかった。
でも、しっかりと自分の言葉で説明したいので、
許してください。
9月27日(火)に行われる「国葬」に欠席します。案内状の欠席に〇をつけるとき、虚しさや悲しさ、屈辱や憤りを感じました。なんとも言えないこの感覚を私は死ぬときまで引き摺ると思いました。
国の行事です。野党第一党の一人である自分が欠席していいのか、海外から見た時に日本は何をしているんだと国家の品格をおとしめるような行為はしたくありません。「決まったのだから出席すべき」「静かに見送るべき」…そういう意見があることもわかります。
でも、皆さん。この国葬、説明できますか。
1947年に国葬令は廃止されました。これまで「国の儀式」とは、天皇退位に伴う一連の儀式など天皇が行う国事行為を指していました。東日本大震災追悼式などは「内閣の行事」、過去にあった首相経験者の合同葬は「内閣の儀式」です。
なぜ今回??
もし私が内閣総理大臣なら、『三権(国会・内閣・裁判所)の長を経験した者が公務・または民主主義を支える活動中に殉職した場合、国葬とする』など、はっきりと基準を設けて説明します。本質は首相経験年数とか政策の功罪とかではないはずです。
このまま行われてしまえば、次に国葬を検討する時、どのようにして決まるのでしょう。その時の内閣の解釈で「国の儀式」が行われるのでしょうか。
踏むべきプロセスをとらず、社会的分断を大きく生み出した政府の責任は極めて重く、すべての憤りを込めて毅然と対応して参ります。この国は、権力者の意のままに動かしていい国ではありません。
すべてがそう。国会にいて恥ずかしく思います。
どの問題も、うやむやなままに先送り。
負担は次世代に。もうこういう政治を終わらせたい。
一人ひとりの力を紡ぎ合わせ、挑戦を応援し合い、ちょっとした気持ちが巡り巡る、温かく楽しい日本を、私はつくりたい。
皆さん、どうか力を貸してください。
2022.9.24 衆議院議員 馬場ゆうき