言葉にならない塊

学生時代の活動

守るか破るか。制限か否か。進むべき道。それぞれの立場が物議を醸す。

○か×か。白か黒か。決断の時…。グレーがあってもいいんじゃない。

言葉にならない、のどに引っかかったものが、本当に大切にしなくてはならないものではないですか。

昨年開催された北京オリンピックで私たちに感動を与えてくれた北島康介は言いました。

「何も言えねえ」と。

 

・真の自由

「福高リベラリズム」。福島高校の伝統として、代々の先輩方が私たちまで届けてくれたこの精神だが、近頃になって衰えを感じてしまうのは私だけではないだろう。

「いったい何が自由なのか。」

そんなことを考えていると、ふとどこからか不思議な声が聞こえてきた。

「未来を知るには過去を学ぼう。」

この言葉が私を吸い寄せ、気づくと私はテレビに映るドラえもんにタイムマシーンをねだっていた。

1939年9月。「血の前進をしろ。」ヒトラー率いるドイツ軍がポーランドを攻撃。ここに第二次世界大戦が勃発した。約五千万人という戦死者を出した残酷な時代ではあるが、この時代にこそ先程の問いのヒントが隠されていた。

日本は反アメリカを掲げ、戦争のことで頭がいっぱいだった。状況は緊迫し、教育にも影響を与え、敵性語である英語教育を全国の学校は廃止に踏み切っていた。プロ野球の巨人の胸マークが「G」から「巨」に変わったくらいである。しかし、それに異を唱えるものがいた。それが福島第三尋常中学校であり、後の福島高校である。福中は軍事主義という時代にも関わらず、自由を教育の指針としていた。先生方の熱い指導、生徒たちの学ぶ意欲。これが「智のリベラル」として現れ、「英語の福中」として全国に名をとどろかせた。「福中リベラリズム」はこの時誕生し、国家権力に屈しない、智の自由を謳ったのだ。

確かに今とは時代が大きく違う。60年前には日本に原子爆弾を落としたアメリカではあったが、初の黒人大統領となったオバマ氏が今年「核なき世界」を謳い、ノーベル平和賞を受賞するにまで至った。核は日本という犠牲を出した一方で、世界全体で平和を考える一つの役割を果たしたのだ。時代は刻々と動いている。福高も同じ。福中から福高へ。男子校から共学へ。その中でも変わらないものがある。

世界は「核」や「平和」をたすきにして、私たちに伝えてくれた。福高は「リベラリズム」をたすきにして私たちに渡してくれたのだ。

過去を学ぶことで現在や未来につながるものが見えてくる。歴代の福高生が創造したものを模倣し、型として受け入れ、現代風に仕上げることが大切なのではないだろうか。

最近、福高では何かと「信頼」が叫ばれている。それは安全・安心を今まで以上に社会が求め始めたからであろう。ただ「信頼」という言葉を間違えて捉えて欲しくはない。信頼とは二者以上から成り立ち、それぞれが同じ大きさで向かい合った時に、初めて力を発揮するものである。つまり、先生から生徒。生徒から先生。どちらか一方では真の信頼は得られないということだ。

(自主制+自律制)×信頼=自由

智に満ちた、自ずからの姿勢。これに信頼がブレンドされたもの。これこそが自由なのだと。これは決して勉学だけのことではない。梅苑祭、部活動…。福高生でしか体感することのできない全てに同じことが言えるだろう。

これが衰えを見せているのであれば、歯止めをかけなければならない。なぜなら自由のもと福高の行事は成り立っているはずだからだ。その「自由」自身が揺らいでは、骨が無くなった人間と同じである。

 

・ABS精神

 そもそも揺らいできた原因は、信頼関係の欠如であろう。しばしば私はこの言葉を耳にする。

「わかってない」

これは先生と生徒以前に、生徒同士の間で言われることだ。行事の運営や管轄を担う生徒会室側と、行事の主役を務める会員側(ここでは会室以外の方とする)との間では考えていることが違うと認めざるを得ないだろう。これを解決せずには、次のSTEPなど踏めるはずもない。

その答えこそが、私にとってABS精神だった。ABSとはACTIVE BUT SMALLである。「ACTIVE」は活発な、「SMALL」は小さな政府という意味を込めた。つまり、活発なのだが小さな生徒会本部ということだ。矛盾してはいないか。活発…されど小さい…。どういうことか説明していこう。

福高は私たち会員や先生方で構成されているのは勿論だが、別な言い方をすると図書委員会や美化、保健を始めとする小委員会。野球、サッカー、バスケを始めとする部活動(特殊部・同好会も含む)。そしてHRを代表する中央委員会で構成されていると言えよう。それらの活動をその諸活動を行っている方に任せるということ。これが「SMALL」。「SMALL」な生徒会を創るということはそれぞれの機関が独立した力を持つということだ。そこで大切になってくること。それは、それぞれのバランスや信頼関係といったものではないだろか。お互い立場が違えば、物事の捉え方も考え方もそれぞれである。そのことに冷静且つ柔軟に対応し、より多くの意見や要望を生徒会活動に反映することが必要になってくる。そこで本部役員は諸活動代表との間に個別の話し合いの場を設け、来年度予算案や活動上の不備を直接聞く。これが「ACTIVE」だ。それぞれの立場が違う福高の生徒会組織では本部役員に求められるのは統率力といったものではないだろうか。生徒会本部が輝きを得る訳ではない、むしろ輝きをサポートするのが福高の生徒会本部なのだ。

真の自由は、時代が過ぎても古ぼけない。つきない福高生の情熱の泉だからだ。本当の自由というものは、その時代の新鮮な表情や、いくつもの試練を乗り越えた魂が宿っている。

智に満ちた、自ずからの姿勢。そして信頼。互いが切り離すことのできない、「リベラル」の不可欠な本質になっているだろう。

 

・そもそも規制って何?

 平成21年。福島県教育委員会から福島県内の高校へ「携帯の持ち込みを禁止・又は使用禁止」という通告が出された。自由の揺らぎを象徴するものであろう。

そもそも規制って何であろう。規制という概念を大きくとらえ法律として考えてみよう。

法律とは主にルールやマナーを紙に記したものだ。そしてそれに反した者は罰せられる。今の日本には様々な法律がある。しかし、それは裏を返せば我々日本人が立派でないということを表しているのではなかろうか。そのルール自体が無意識に心に刻み込まれていれば、法律など必要ないのだから。規範意識が皆に備わっていれば法律など存在しない。現に刑法が存在しない国もあったくらいだ。

法律とは「自らを立派でない」と言っているようなものと同じなのだ。

 

・本当に伝えたいことは言葉にならない

裁判というものが日本にはある。その役割は単に言葉で有罪・無罪を示すのではなく、被告人が犯してしまった罪がどれほどの重みがあったのか。それを分からせることではないだろうか。そして被告人がその重さを身体で理解し、また誰かのために尽くしたいと思えるそんな日を願っているのではないだろうか。それは決して言葉にはならない。

話を規制に戻そう。この度の勧告は情報モラルの低下が原因だった。それに歯止めをかけるべく、国や県がとった行動は規制だった。規制とは、本来言葉で表せないものを、簡単な言葉で境界線を引いてしまう。それを引く側が分かり易くするために大胆に引いてしまったら、望んだ方向など誰も見向きもしないだろう。むしろ、皆が今まで以上に敏感に感じてしまい、事態は悪化することになる。破る規制をつくってどうするのか。安易に言葉でけじめをつけてはいけないのだ。

とは言っても、今の福高の現状では規範意識が薄れていると言われても仕方のないことだろう。それ故に、今一度「リベラル」を皆で確認したい。

(自主制+自律制)×信頼=自由

闘いの武器は心である。自分は福高を構成している一人なのだと、会員と先生方も含めた皆が意識すること。そのためにABSがあるということ。

この話は単に規制の話だけではない。部活でも、生徒会本部でも、伝えたいことは言葉になるものではないはずだ。それらは先輩方の活動から感じて学ぶもの。

本当に伝えたいことは言葉にならない。その思いや情熱が人を動かすのだ。

 

・時代にふさわしいレール

「何十年後、何百年後。この校舎にいる後輩たちはどんな変化を見ているのでしょう。私たちはどんなたすきを渡しているのでしょう。」

自分たちの時代を大切にして下さい。自分たちにしかできないACTIONを起こして下さい。

未来の後輩へ「福高リベラリズム」という贈り物を届けるために。福高生としての誇りを伝えるために。

進むべき道にレールを作ってみませんか。誰かにしかれるのではなく自分たち自身でレールをしくのです。進むべき道に明かりを燈して下さい。そのレールに合った乗り物を作るのが本部の役目だと私は感じています。

その時代に合った、個性あふれる乗り物を、福高を構成する全ての人で作ってみたいものです。

 

・福高という名の空間

各自、与えられた時間は三年

その限られた時間の中、何を残すか

伝統とは、言わば空気そのもの

福高という名の空間に刻み込まれている

私たちはそれを吸って自然に身に付いている

この素晴らしい空間に何を残すか

私は言葉にならない塊を残したい

(2009年度 後期生徒会長 馬場雄基)